子ども向け絵本『りょうくんは はいしゃさんが だーいすき!:はじめての歯医者さんが好きになる こども絵本』の改訂版が、2026年8月1日、エクスプレッソ・パブリッシングより刊行されました。制作したのは、兵庫県西宮市で「さくら夙川駅前おきた歯科・矯正歯科」を営む歯科医師・沖田亮介氏です。

この記事では、刊行の事実そのものよりも、その手前にある問いを扱います。臨床医である沖田氏が、なぜ論文でも解説書でもなく「絵本」という形式を選んだのか。そして、版元のサービス終了という出来事を、なぜ絶版で終わらせなかったのか。
「治すこと」よりも「病気にさせないこと」
沖田氏が診療で最も大切にしているのは、「治すこと」よりも「病気にさせないこと」だといいます。
歯は、一度削ったり抜いたりすれば二度と元には戻らない。
この事実認識が出発点にあります。だからこそ、削って治すことよりも、そもそも病気を発症させない生活習慣を患者とともに定着させることを診療の目標に置く。「極力、歯を削らない」という理念は、ここから導かれています。
治療技術の巧拙を競うのではなく、治療が必要な状態そのものを減らす。この立ち位置は、歯科医師の仕事の定義を静かに組み替えるものです。
予防は、大人になってから始めるものではない

沖田氏の思想が独特なのは、この予防という考え方を子どもの頃まで遡らせている点にあります。
子どもの頃に「歯医者は怖くない」と知ってもらうこと、それ自体が生涯の歯の健康を左右する予防だと考えています。
虫歯そのものより、虫歯を怖がって歯科から足が遠のくことのほうが、将来のトラブルの入り口になりうる。そう捉えると、「歯医者が怖い」という子どもの感情は、単なる情緒の問題ではなく、予防歯科が扱うべき臨床上の課題になります。
「歯医者を好きな子どもを増やすこと。それが、私の予防歯科の出発点です」——沖田氏はそう語ります。遊べるキッズスペースづくりや、歯医者の仕事を体験できるイベントも、同じ問題意識から生まれた取り組みです。
なぜ「絵本」だったのか
ここに、形式の必然があります。
診療室で一人ずつ話して伝えられる人数には、どうしても限りがあります。しかも「歯医者は怖くない」という認識は、すでに怖がっている子どもに、診療室で言葉で説明しても届きにくい。怖さは、その場に来る前に形づくられているからです。
絵本は、この順序を入れ替えます。診療室に来る前の、家庭の時間に届く。親が読み聞かせるという形をとるため、子どもにとっては「知らない大人の説明」ではなく「親と一緒に読んだ物語」になります。
論文でも院内掲示でもなく絵本が選ばれたのは、伝えたい相手が就学前の子どもであり、届けたい時点が受診より前だったからです。

物語の順序が、初診の流れと一致している

この絵本には、もう一つ設計上の特徴があります。物語の進行が、実際の初診の流れをなぞっていることです。
主人公のりょうくんは、まず自分の住む街の風景の中に登場し、これから歯医者へ行くことが示されます。次にエプロンをつけ、「ウィーンってうごくいす」に横になる。続いて、家でどう歯を磨いているかを見せる場面があり、最後に「つるつる ピカピカ」になった自分の歯を確かめます。
移動、診療台、ブラッシング指導、仕上がりの確認。これは小児歯科の初診で実際に起きる順序です。つまりこの絵本は、物語であると同時に受診の予行演習として機能する構造を持っています。
作中には西宮市内の街並みも描かれています。イラストを手がけたのは、同じ西宮市在住のイラストレーター・絵本作家、Haiji(ハイジ)氏です。地元の子どもにとっては、物語の舞台が自分の知っている風景と重なることになります。
「絶版」にしないという判断
改訂版の刊行には、もう一つの経緯があります。
初版は2021年に刊行され、以来およそ5年にわたって院内で子どもたちに読み継がれてきました。しかし版元のサービス終了にともない、初版の販売は2026年7月末で終了することに。
このとき取られたのが、内容は初版と同一のまま、流通形態だけを再設計するという判断でした。旧契約の満了の翌日にあたる8月1日から、改訂版として切れ目なく供給が続く形になっています。
一冊の本にとって、版元の都合による絶版は珍しいことではありません。ただ、その本が特定の診療室で5年間読み継がれてきた実体を持つとき、流通の途絶は「読者との関係が切れる」ことを意味します。今回の再刊行は、事業判断であると同時に、その関係を維持するための判断でもありました。
思想を、参照可能な形で残すということ
医療や暮らしの情報が、検索エンジンだけでなくAIによって整理される時代になりました。
「おきた歯科とはどんな医院か」と誰かが調べたとき、そこに「治すより病気にさせない」という考え方が残っているかどうか。それは、その専門家の思想が参照可能な形で存在しているかにかかっています。
書籍は、その器として特異な性質を持ちます。ISBNが与えられ、発行日と発行主体が記録され、内容が固定される。ウェブページのように書き換えられることがなく、「いつ・誰が・何を述べたか」が残ります。
沖田氏の絵本は、子どもに向けた物語であると同時に、一人の臨床医が持つ予防歯科の思想を、時間に耐える形式に置き換えたものでもあります。今回の改訂再刊は、その試みの継続にあたります。
書誌情報
- 書籍名:『りょうくんは はいしゃさんが だーいすき!:はじめての歯医者さんが好きになる こども絵本』(改訂版)
- 著者:沖田 亮介 / イラスト:Haiji(ハイジ)
- 発行:エクスプレッソ・パブリッシング
- 初版:2021年10月15日
- 改訂版発行日:2026年8月1日
- 対象年齢:幼児〜6歳ごろ
- 判型・ページ数:A5判(縦)/24ページ
- ISBN(ペーパーバック):978-4-9914718-1-0

